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もっと最近では、カオス理論としても知られる進化体系理論を使って、永遠に有効な法則によっては決定することのできない過程をもつ複雑な現象が究明され始めた。
事件はたとえわずかな変動でも時間の経過によって増幅されるような、後戻り不可能な道をたどるものである。
カオス理論は、たとえば天候など、以前には科学的な処理を受け付けないとされていた多くの現象に光を当てることを可能にし、事件が特異な不可逆的な進路をとる不確定な世界という考え方が受け入れられやすくなった。
ちなみに私が金融、政治、経済の理解に相互作用性の概念を適用し始めたのは一九六○年代の初めであり、進化体系理論が生まれる前だった。
私はカール・ポパーの著作の助けを借りて、自己関連性の概念を通じて、そこに到達した。
このふたつの概念は密接に関係し合っているが、ふたつを混同してはならない。
自己関連性は論述の属性であり、全面的に思考の領域に属している。
相互作用性は思考を現実に結び付けるものであり、両方の領域に属する。
それがこれほど長いこと無視されてきたのは、このためかもしれない。
相互作用性と自己関連性が共通にもっているのは不確定性の要素である。
論理実証主義は自己関連性の論述を無意味であるとして締め出してしまったが、私は相互作用性の概念を導入することによって、論理実証主義をひっくり返そうとしているのである。
真理価値が不確定な論述は、無意味であるどころか、真理価値がわかっている論述よりもずっと重要である、というのが私の主張である。
後者は知識である。
それはあるがままの世界を理解するのに役立つ。
しかし、前者はわれわれの理解が本来的に不完全なものであることの表明であり、われわれの住む世界の形成を助けるものこの結論に到達した時、私はこれが偉大な洞察だと考えた。
いまでは自然科学はすべての事象について決定論的な解釈を強要しなくなり、論理実証主義は舞台裏に引っ込んで影が薄くなっているのであるから、私は死んだ馬を打ちのめしているような気もする。
実際のところ、知的な流行は逆の極端に走っているのである。
現実の主観的な見解への解体や参加者のバイアス(偏見)が猛威を奮っている。
異なった見解について判断を下すことのできる基準そのもの、すなわち真理が疑われているのである。
私は反対側のこの別の極端も同じように見当違いだと思う。
相互作用性はわれわれの真理概念の全面的拒否ではなく、その評価のやり直しにつながるべきものである。
である。
論理実証主義は論述を真理と虚偽と無意味の三つに分類した。
無意味な論述を切り捨てたあとは、真理と虚偽のふたつの範晴しか残らなかった。
この方式は、関連する対象がその論述と離れて独立しているような領域においては申し分なく適しているが、思考する主体がいる世界を理解するためには不適当といわざるをえない。
ここではもうひとつの範晴を認める必要がある。
すなわちその真理価値がそれによってもたらされる影響によって左右されるような相互作用的論述である。
たとえばなにか真理価値の疑わしい論述を持ち出して論理実証主義の立場にケチをつけることはつねに可能だった。
たとえば「現在のフランス国王は禿げである」といったものである。
だがこのような論述は本質的でなかったり、作り上げられたものだったりする。
いずれにしても、われわれはそのようなものがなくてもすまされる。
それとは対照的に、相互作用的論述は欠くことのできないものである。
われわれは相互作用的論述なしには生きられない。
われわれは自分たちの運命にかかわる決定を避けることはできないからである。
そしてわれわれは、それが関連する対象主体に影響するような思想や理論に頼らずに決定を下すことはできない。
そのような論述を無視し、あるいはそれを「真理」と「虚偽」の範晴に無理やりに押し込めるならば、その論述を誤解されやすい方向に導き、人間の関係や歴史を間違った枠組みに据えることになるだろう。
すべての価値論述はその性質において相互作用的である。
「貧しき者は幸いである。
天国は彼らのものだからである」という論述を信ずるとすれば、貧しい人々は本当に幸せかもしれないが、困窮から抜け出そうとする彼らの意欲はそれだけ弱まることになる。
同じように、困窮は彼ら自身が悪いからだということになれば、彼らが幸せな生活を送る可能性はそれだけ小さくなる。
歴史や社会についての一般的通則のほとんどは、同じように相互作用的性質をもっている。
「世界のプロレタリアは失うものは鉄鎖しかない」や「共通の利益は人々がそれぞれに自分の利益を追求するのを許すことによって最もよく実現される」などを考えてみよう。
このような論述にはなんの真理価値もないと主張するのも妥当かもしれないが、それを無意味なものとして扱うのは誤解を招くだろう(そして歴史的にはきわめて危険なことだった)。
それは関係している状況に影響を与えるのであ私は三つ目の真理の範晴が相互作用的な現象に対処するのに不可欠だと主張しているわけではない。
決定的に重要な点は、相互作用的な状況の下では「事実は必ずしも真理の独立した基準にはならない」ということである。
われわれは一致を真理の証明として扱うようになっている。
だが一致はふたつの方法によってもたらすことができる。
ひとつは真実の論述を行うこと、もうひとつは事実そのものに影響を与えることである。
一致は真理を保証するものではない。
この警告はほとんどの政治宣言や経済予測に当てはまる。
この命題の深い意義はほとんど強調する必要もないだろう。
われわれの思考にとつて、われわれの真理概念以上に基本的なものはないからである。
われわれは思考する参加者が存在する状況について考える場合でも、自然現象について考えるのと同じように考えることに慣れている。
しかし一っ目の真理の範晴があるとすれば、われわれは人間や社会の問題について考える方法を全面的に改めなければならない。
国際金融分野から小さな例をひとつあげてみたい。
国際通貨基金(IMF)にもっとガラス張りのやり方で運営し、個々の国に関する内部討議や見解を開示するよう求める圧力がますます強まっている。
この要求はその論述の相互作用的性質を無視したものである。
IMFが特定の国について懸念を明らかにすれば、言及した国に影響を及ぼすだろう。
これを認識すれば、IMF当局者は真の意見を表明するわけにはいかず、内部討議は押し殺されたものになる。
真理が相互作用的であるなら、真理の探究もときには非公開を要求するのである。
論述と事実との間、われわれの思想と現実との間に線を引いて区別することは正当化されるだろうが、われわれはこの区別が、われわれの住む世界の意味を理解しようとする試みにおいて、「われわれ自身によって」持ち込まれたことを認識しなければならない。
これは思考と現実を完壁な仕切りのなかにきちんと分けることができる(自然科学のような)場合よりも、現実(すなわち理由)を理解する仕事をずっと複雑にするだろう。
われわれは思考を、別個の範晴としてではなく、現実の一部として扱わなければならない。
これは大きな困難を生み出す。
これについてはひとつだけ指摘しておきたい。
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